クロニクル

★ 0歳

同好会として発足。部員はゼロ。用具もゼロ。活動場所もゼロ。顧問は一人。放課後は部員探し。体育の授業も部員探し。何人かの生徒が入り、止め、入り、止めを繰り返し、結局残ったのはゼロ。そのまま1年が経過。あまりの苦しさに宗教にすがりそうになった。

★ 1歳

部として立ち上がる。しかしながら部員は2名。しかも2名はGKとFP。練習場所は近所の公園(ソフトボール場の外野)。ほどなくそこからも追い出される。しかも「サッカー禁止」の看板付き。何を練習してたかよく思い出せないが、とりあえず毎日、1人(顧問)対2人(部員)で練習してた事だけは思い出される。そして、この年、バトン部の助っ人を借り、全国高校選手権北信越大会に初出場。(福井県で1チームのためいきなり北信越大会。ちなみに今も)圧倒的大差で敗れるものの、全国大会出場が、夢じゃなく、現実のものとなった。

★ 2歳

部員は増えず、新入部員は3名。計5名となった。しかしながら、ものすごく増えた印象があり、いろんな練習が出来ると喜んでいた。また、この年C級ライセンスを取得するものの、C級よりカウンセラー資格の方が役に立つと実感した。この年の高校選手権北信越大会は、バレー部を助っ人に出場。10人で守り、1人のカウンターで1回戦勝利!!2回戦はぼろ負け。ちなみにサッカー部員より、運動能力の高いバレー部員の活躍が目立ち、少し複雑な気持ちになる。

★ 3歳(初代主将・野原愛美・RUCKレディース出身・衛生看護科)

福井県U15選抜に所属していた選手が多数入学してくれ、本格的なスタートを切る。よって、実質的な活動としては、ここで1歳を向かえた。女子サッカー部員のみで試合に参加できる事の喜びはひときわだった。(宗教との決別)この年、高校選手権北信越大会初優勝を飾り、悲願の全国大会出場を果たす。2年前に見た夢が現実のものとなった。もちろん全国大会は、予選リーグ最下位(1分け2敗)。女子サッカー部専用マイクロバスを購入。(ちなみに○十万円)ここからマイクロバスの思い出とともに女子サッカー部の歴史が始まる事となった。思い出(事件集)は後ほど。

★ 4歳(二代主将・寺井桂子・初心者・衛生看護科)

女子寮が新設。ここから県外生の受け入れが可能となる。日本代表候補選手が生まれる。福井からは珍しいため取材攻勢に合う。自分まで。この年から、冬の全国大会が県選抜ではなく、単独チームとなった。しかしながら北信越大会では1回戦負け。シュート数26対4、ポゼッション8割以上のゲームをしながら、1-2で敗戦。サッカーの怖さを思い知る。それをきっかけに、保護者の全面的な協力で第一HPが設立。以後、活動をみなさんに知っていただく事が可能となった。また、女子サッカー部専用グランドの完成。学園本部「女子サッカーのグランド欲しいか?」久保「欲しいです。」本部「わかった。作ってやる。近いぞ。」久保「ありがとうございます!!どこですか?」本部「野球場の隣や。」久保「(そんな土地あったかな?)」かくして、野球場の隣に女子サッカー部専用グランド完成。縦45m×横15m。正規ピッチの11分の1のグランド。ナイター照明完備。周りからは狭すぎると言われるが、実は本気で結構気に入っている。基本練習の徹底というかそれしか出来ない。おそらく部員も気に入っているはず。

★ 5歳(三代主将・有町紗央里・RUCKレディース出身・普通科特別進学コース)

3大大会(高校選手権・全日本選手権・全日本ユース)すべてに出場を果たす。先に選出された選手とは別に、新たに2人代表候補入り。しかしながら二度目のため、あまり騒がれずちょっと寂しくなる。サッカー部が実質の活動をスタート出来たメンバーがごっそり抜ける年となり、来年に向け、いろいろな事が寂しくなった。不安になった。

★ 6歳(四代主将・酒井望・栗東FCリブロ出身・普通科普通コース)

前年の不安とは別にこの年も3大大会への出場を果たす。この年ほど、やるサッカーが偏った年はなかったと思う。ただ、偏った分、それが徹底につながり、チーム力は上がったと感じた。これしか出来ない!!がこれでいくしかない!!になったと思う。この年、B級ライセンス取得。辛かったです。翌年、大人数の新入部員を迎える事になり、在校部員は焦る。それに伴い、老朽化したマイクロバスとさよならする事に。○十万で買ったバスが、約3倍の値段で買い取られるという奇跡も重なり、中型バスの購入にいたる。

★ 7歳(五代主将・北原彩希・松本レディース出身・普通科特別進学コース)

3大大会のうち全日本ユースを逃す。3年生の引退を1ヶ月早めてしまう。申し訳なさ・悔しさ、いろんな感情で食事ものどを通らない。(1日だけだった)翌日からの修学旅行に助けられ、なんとか気持ちを切り替える。なぜかテレビ局の取材が重なる。福井放送の「チカッペ」や、NHKの特集に選ばれ出演。ただ、主演はどちらもキャプテン彩希でした。

★ 8歳(六代主将・山本未来・FCミナス出身・普通科特別進学コース)

2年振りに3大全国大会出場を勝ち取る。が、全日本選手権前、女子サッカー部に新型インフルエンザパンデミックが起きる。たまたま2回戦からの登場となり、何とか出場を果たす。もしも1回戦からの登場であれば部員が足りず辞退でした・・。(ちなみに最後までうつることなく粘ったU田T絢は、出発当日にかかりリタイヤ)またもや見えない力に助けられました。ツイテル。他にも富士ワイズメンズでの優勝や、国体での5位入賞など、過去最高と言える輝かしい実績を残す事が出来ました。これもツイテル。そして年度末、翌年の女子寮満員が決定し、スカウト活動が止まる。開き直ってサッカーに打ち込みました。

★ 9歳(七代主将・竹中里奈・楠クラブ出身・普通科普通コース)

2年連続3大大会出場を勝ち取る。ただ、当たり前に各県のレベルも上げっており、厳しい戦いが続いたが何とかもぎ取ったという印象。北信越大会では、卒業生に苦しめられる。基本嬉しいが、ほんの少し複雑でもある。そしてこの年、女子サッカー部9歳にして、念願の専用グランド保有にいたる。本校女子サッカー部は、学校からの全面的なバックアップを得て設立されたクラブではなく、本当にゼロから、一歩一歩、毎年毎年、少しずつ、成長してきたクラブ。ここに至るまでの、歴代の卒業生の努力と、歴史の継続にとにかく感謝。9年成長を続けたクラブに対して、自分は成長したのかと少し自省。大人数の7期生が抜ける事態に、若干の焦りを感じていたが、なんくるないさぁ精神(ちなみに自分と沖縄との接点は皆無)で、新入生が期待通り入ってくれ、胸をなで下ろす。女子寮若干の空き部屋有。

★ 10歳(八代主将・中谷内奈子・上越教育大学WISH出身・衛生看護科)

『この年、遂に全日本選手権北信越大会女王の座を逃す。不確定要素のもっとも多いとされるサッカーというスポーツで、勝つ事、勝ち続ける事の難しさを感じ、思いを馳せる。そしてひと月後の全日本ユース北信越で、チームから醸し出される一体感の心地よさを感じ、更に思いを馳せる。 しかしながら本番の初戦で撃沈される。浮き沈みの激しい試合が多い年であったが、10歳最終戦では関東チャンピオンから金星を挙げ、終わりよければ・・という考えになる。10年というひと区切りを終え、11年目の新入生も多数の入部が決まり、20年目はあるのかないのか、どうなってるのかという不安と期待を感じながら、今まで通り、自転車操業でやろうと決意をした年でした。』。

★ 11歳(九代主将・吉田侑加・元気SC卑弥呼出身・普通コース)

3年生5名、1,2年生30名というかつてない偏りをもったチームとなった。 3つの全国大会出場を果たすも、3つとも、1回戦で、神村学園、早稲田大学 、日ノ本学園という、各カテゴリーで全国制覇を経験するチームとの対戦となった。 岩本さんの著書『ジャイアントキリングを起こす19の方法』を読んだにもかかわらず、起こすことが出来なかったのは、読み込みの甘さを露呈してしまったと感じた。 4人のイケイケな変わり者関西人と、1人のスーパー変わり者石川人で、絶妙なハーモニーを醸し出し、チームを作ってくれました。 この5人の意志を受け継ぎ、これからも、ユーモアに富み、エスプリの利いたチームを作っていきたいと感じさせてくれた11歳女子サッカー部でした。

★ 12歳(十代主将・奈良部小雪・ボニートンFC出身・スポーツ特進コース)

サッカーの方向性を、パスサッカーに転換し、試行錯誤を繰り返す。リアクションでなく、アクションでゲームを作ろうとする楽しさを感じる。全国上位進出こそならなかったものの、相手がどこだろうが戦える手応えを感じるチームであった。冬の高校選手権がTBSで取り上げてもらうことになる。本校も特集され、双子ちゃんが対象になり、毎日取材に明けくれる。その後、キャプテンに病気が発覚。当時、非常にシリアスな展開であったが、いつの間にか対象がキャプテンに移行。双子ちゃんとその家族のドキュメントはカットとなる。過去にも、転校生の受け入れはあったが、この学年は、3人も来た学年。言葉以上に、個性豊かな学年であった。入学当時、「この学年には華がない」と自分が言ったと、卒業後言われたが、絶対に勘違いのはず。過去最高に華のある10期生であった。

★ 13歳(十一代主将・碇加奈恵・星稜PEL出身・普通コース)

ここまで前年からスタメンの入れ替わった年は、過去になく、大変不安の大きい幕開けであった。(選手だけでなく、自分も)意に反して、新チームスタートとなるめぬまカップでは、過去最高成績をおさめ、上々のスタートを切る。しかしながら、インターハイ北信越予選で敗退。痛恨を味わい、どん底に陥る。その後、10年振りほどに悟りを開き、「落ちる」と感じるこそ「慢心」であったと悟る。チームはチャレンジャーとなり、選手権予選では、見事にリベンジを飾る。チームの一体感こそが、最大の武器になるという事を、改めて実感でもって学ぶことが出来た。「バカが付くほどまじめです。」ダウンタウンのまっちゃんに変わり、郵便局のCMに出られる程、そう形容できる学年。笑顔と実直さを残し、旅立ってくれました。

★ 14歳(十二代主将・角野友有子・ジュベンFC出身・スポーツ特進コース)

チームスタートから、キャプテン決めに10時間を費やす。新チームが立ち上がり、全員集合し臨んだめぬまカップ。新チーム最初のゴールを決めるのは誰かと話していた矢先の初戦、まさかのDF、○野のオウンゴールで幕を開ける。波乱の一年を想像させるには十分な幕開けであった。過去、最も怒られたであろう学年。マイヤーから暗闇の中を走って帰る。マイヤー坂に道を作る。噛む。逃走する。等々、、、様々な経過の末、最後には一体感のあるチームを作ってくれた学年。またどこかで、全国に散らばりサッカーを続けてくれているOGに会えるのを楽しみにしたいと思います。最後に、KAMOスポーツ大阪梅田店にはあっちゃんが働いています。外商の売り上げに奮闘していますので、貢献して上げてください。

★ 15歳(十三代主将・中村涼乃・伊賀くノ一サテライト出身・スポーツ特進コース)

久しぶりの皇后杯出場を勝ち取る。1回戦のセレッソ戦。格上のなでしこリーグに対して、「絶対に欲を出さず臨もう。」「次の事を考えずに目の前の一戦だけを考えよう」と挑む。すると前半、まさかの1-0とリードで折り返す。「ん?もしや?」「あれ?来週の2回戦って会場どこだ?」「宿って大丈夫かな?」そんなことが頭によぎり、思わずハーフタイムにスマホで確認する。(本当にまったく調べてなかった)すると後半見事に逆転負け。初志貫徹の大切さ。ぶれない大切さを学びました。また、試合に出場する選手が少ない学年であったが、本当に努力し、後輩に背中を見せ続けてくれた学年でもあった。そして唯一、久〇のマイナス30キロの変遷を見守ってくれた学年でもあった。そして、高校選手権開幕の1週間前倒しにより、年末恒例のUSJに行けなくなった学年でもあった。

★ 16歳(十四代主将・坂本茉耶・伊賀くノ一サテライト出身・スポーツ特進コース)

何といっても、全国高校選手権大会3位入賞を果たす事が出来た代であった。 過去13回、2回戦の壁を全国の強豪に阻まれ続けた中、ついに今回ブレークスルーする事が出来ました。ひとえに現サッカー部にかかわる方々、歴代の先輩方、すべての関係者のおかげです。本当にありがとうございました。 過去、雑誌等でしか見た事のなかった、表彰式でメダルを授与されているシーンを、自チームの選手が受けている光景は、生涯忘れる事のない素晴らしい思い出となるシーンでした。 準決勝のPK戦では、最後の最後、本当にあと一歩のところで決勝進出を逃す結果となってしまいました。 41歳にしてはじめて、「手にしたと思うものが、するりと手から滑り落ちる感覚」というものを味わいました。試合後のインタビューで、敗因は「最後のキッカーの前に熱くなり、滑り止め付きの手袋を外したことです。」と答えましたが、どこにも掲載されませんでした。 強いチームは全国にたくさんありますが、その中でも限りなく最後の最後までチームを継続できたことが何よりも嬉しかったです。濃密な年末年始の1週間を送る事が出来たことが嬉しかったです。素晴らしいチームを作ってくれた3年生に一番の感謝を送りたいと思います。 残されたものとしてさらに上回るチームを作っていけるように努力していきたいと思います。 今後とも福井高校女子サッカー部の応援よろしくお願いいたします。

★ 17歳(十五代主将・浅田凛花・春日井市立中部中学校(3種)出身・体育コース)

昨年の全国3位という成績を引き継いだままスタートし、プレッシャーと戦いながらの1年となった。しかしながら、2年連続インターハイ出場を勝ち取り、初のベスト8入り。また、皇后杯北信越においても、久方ぶりの優勝を勝ち取り、クリスタルトロフィー奪還に成功する。 も、もはや鬼門となった高校選手権北信越予選決勝ではまたもや苦杯をなめる。反省の中の数パーセントは前日のホテルのバイキングでのあまりの食べ過ぎと当日朝でのバイキングが含まれると思われる。 北信越大会3冠はかなわなかったものの、過去数年で一番近づいた年でもあった。 また、19人全員が脱落せず、最後までやり切れた学年であった。

★ 18歳(十六代主将・大橋怜果・グランセナ新潟レディース出身・クラブ特進コース)

過去最大数の新入生を迎え、大人数でのスタートとなった第18期。様々な事を変革期として捉えながら、オンザピッチ・オフザピッチでトライし続けた一年間であった。
変わるべきもの・変えちゃいけないもの、答えのない中キャプテンを中心に模索し続けた我慢の年であった。そんな中なかなか結果が出ずに苦しんだ年であったが、その証として現れたのが、大阪遠征最終日、最終戦で飛び出た髪の毛ワシャワシャ事件であった。動画編集しながら、一人で笑いを堪え切れなかった初のシーンであった。優しいみんながプレゼントでくれた、どれだけ座っても疲れないクッションには「もっと気合い入れて運転頑張れよ」のメッセージが込められている気がした。
何はともあれ新型コロナで卒業直前の最後までバタバタした中、元気に卒業していった年代であった。